末社・施設

末社 下浅間・浅間稲荷・疱瘡神合社

当、浅間神社の参道が現在より前方西側に延び、そこから鍵型に曲がって北に延び一の鳥居が、現在の東日本銀行近くに在った時代。末社の当合社は鳥居近くに 祭祀されていました。ところが、昭和七年に国道四号線(旧日光街道)の拡幅により参道全部と境内の一部を失い、当合社は現在地に移転されました。

下浅間社 参詣者はまずこの社を拝し、次は、上浅間と称した本社の浅間神社を参拝し、最後に奥浅間(奥宮・現在は小御獄神社)を拝すという。富士山吉田口の北口登山に倣った参詣を行っていました。御祭神本社と同様で、木花咲耶姫尊です。

浅間稲荷社  古老の言伝によると、当村宿組の人々が奉斎する社で、名称は、本社の南に広がっていた浅間耕地に祭祀されていたのが、いつの時代か当社に移されたと伝えられています。この神は、衣食住の祖神で、古来より産業の守護神です。御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

疱瘡神 種痘が行われる以前は、疱瘡に罹ると後に残る痘痕(あばた)もさることながら、死亡率も高い、子を持つ親は、この病を齎(もたらす)す神を恐れ速やかに他の村に立ち去ることと、痘痕に罹った子の快復を願い、この神を 祭祀しました。御祭神は医学の祖神である少彦名命(すくなひこのみこと)


末社 椚木稲荷神社

当社は、明治四十年造、瀬崎の字椚木六百五十番地に鎮座し、原組持の稲荷社として、村内広く信仰を集めていましたが、一村一社令により、当神社を村社浅間神社境内に 祭祀することになりました。跡地と樹木は明治四十二年六月に売却し、代金は村社浅間神社に特別基本財産として寄附されています。御祭神は倉稲魂命


末社 小御獄神社(富士塚)

瀬崎の富士塚は明治四〇年に廃社となった天神社の跡地に、浅間神社の奥の宮(富士登山北口の奥宮「久須志神社」)に添って倣って)として、地元富士行中丸瀧講瀬崎講社が、老若男女誰でも、このミニ富士を登拝することで、実際の富士

登山と同様な霊験が得られることを願って、大正五年(一九一六)八月に建造されました。その後、昭和十七年(一九四二)に、富士山河口湖五合目に鎮座する。健康で長寿を得られるとされる神で、浅間神社の姉神である、磐長姫命(いわながたらしめのみこと)を祀る、「小御獄神社」に祭祀変を行っております。

山の高さは、山頂の石伺上まで約五メートル程で、山体を富士山の溶岩で包み、富士山五合目以上の御姿を写しています。ところで、建造から百年ということもあり、破損箇所が多く危険なためと、平成二十六年一月「瀬崎の冨士行」と組で、草加市の民俗文化財に指定されたのを機械に、多くの皆様からご奉賛を得て。富士塚修復工事に着手し、失われていた、男坂と女坂の登山道及び御胎内と称する洞穴なども復元され、平成二十八年二月に埈行しました。


摂社 天神社

瀬崎には往古より浅間社・天神社・氷川社が鎮座し共に、真義真言宗西新井村の総持寺(西新井大師)の末寺である当村の善福治が別当寺として、社僧が祭事をとり行ってきたが、明治維新の神仏分離令により、代わって神官がこれらのことを行うこととなりました。ところで、当社の御由緒となると詳らかではありませんが、元禄(一六八八~一七〇三)の年号が見える棟札が存在していますので、この時代に現在地に勧請されたと考えられます。明治初年の地誌「武蔵国郡村誌」には、「天神社・社格平社・社地堅十八間横十六間・面積二八七坪・村の西方にあり・菅原道真公を祭る。祭日九月二十五日・氏子信徒一二〇八」とあり。

合祀当時の社殿は、拝殿は間口二間・寄棟造の草葺・本殿は一間社流造で草葺とあり、今の浅間神社の社殿より一回規模が小さかったようです。

その後、明治四〇年御一村一社令により、旧谷塚村の内六つの大字(大字は明治二十二年までは独立した村)の大小の神社が浅間神社に合祀となり、当社も同様で、廃社の跡地処分は、浅間神社境内に編入され、御神体と棟札は同社の本殿に移管となりました。この度、平成二十八年二月、富士塚の修復と合せて、再び祭祀されました。御祭神は、文学の神、学問の神として、また、雷神信仰と結びつき農耕の神農としても崇められてきました。


浅間神社の文化財

浅間神社本殿の一棟 昭和五十一年十一月十五日市指定現本殿は天保十三年(一八四二)に再建されたことが本本殿内にある擬宝珠銘から明らかである。本殿の建物は、間口二.三二メートル、奥行き三.六〇メートルの流造りの一間社で、前面に軒唐破風(のきからはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を配し、随所に彫刻を配し善美を尽くしたものである。

これは、当時この地方に繁栄した布晒業・形付業・紺屋業者と地元の方が協力し、この地の富士講の面目にかけて造営したものと思われる。現在ではこのような豊富な彫刻を配した建物は少なく、特にこの地域での宮彫彫刻を研究する上からも重要である。

瀬崎の富士行及び富士塚 平成二十六年一月二十四日市指定富士山を信仰する人々で組織された富士講は、各地で独自な展開を見せてきまいsたが、草加市域では旧瀬崎村で「富士行」と呼ぶ一連の行為を伝え、今なお受け継がれてています。「富士行」、富士山頂で神霊を捧げることのほか、地元では元旦と七月一日(富士山の山開きの日)は浅間神社の拝殿で、その他の間は、社務所で「オツタエ」と呼ぶ富士の神霊を称える唱言が節を付けて唱えられます。富士講の隆盛は、富士登山者の増加をもたらしましたが、当時の富士山は女人禁制で、しかも往復に相当の日数を要したため容易に登れる山ではありませんでした。そこで、唯もが身軽に登山できるように築かれた富士山を富士塚と呼んでいます。

瀬崎の富士塚は対象五年(一九一六)八月に竣工し、地元はもとより近隣の富士講の講員が今なお参拝に訪れています。各地の富士講・富士塚が廃れていく中、往時に近い形で今に伝わる瀬崎の「富士行」・「富士塚」は全国的に見ても貴重な存在であり、大切な文化遺産となっています。

※富士塚の規模高さ約四メートル・横幅一〇.四メートル・奥行八.六メートル


富士浅間神社手洗石の高低測量几号

慶応元年(一八六五)銘のある手洗石に刻まれている「不」のきごうは「高低測量几号」といい、水準点を示します。

内務省地理寮が明治九年(一八七六)八月から一年間、イギリスから招聘(しょうへい)した測量技師の指導のもと、東京・塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在の瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社下浅間社脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域で二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三.九五三メートルです。

測量の貴店となったのは、霊巌島(れいがんじま)(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。

その後、明治十七年(一八八四)に測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。以後、手洗石も明治四〇年代(一九〇七~一九一二)と昭和七年(一九三二)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は測量史上の貴重な資料であるといえます。平成二十二年三月。


浅間神社の社殿彫刻

一般における寺や神社の建築に彫物で飾られるようになってくるのは江戸初期からで、この頃には大工が彫刻を兼ねていたが、中期になると大工から独立して彫物大工という職人がでてくる。江戸時代の彫物大工は、島村・後藤・石川の三家、ないし小松家を加えて四家が江戸で有力であったという。当、浅間神社の社殿彫刻は、天保年間(一八三〇~一八四四)頃活躍した島村家八代の俊正の作といわれている。